てきとーにやること。大事なことを大事にすること。

仕事をする上で、てきとーにやることと大事なことを大事にすることは同値です。

どこが大事かわかるということは、どこがてきとーにやっていいかわかることです。

大事なことがわかっていても、大事じゃないところにも労力を費やしていては、大事なところを大事にすることはできません。大事なことがわかっていても、そこに労力を費やせなければ、わかっていないのと同じことです。

限られたリソースで成果を上げるには、大事じゃないところ、すなわちてきとーにやってもいいところをてきとーにやるしかありません。

こういうと反論する人がいます。
「大事なところはちゃんと大事にする必要があるが、大事じゃないこともきっちりやるのが社会人だ」

仕事は一日7.5時間です。その中で全てをきっちりこなすのは無理です。
夜遅くまでサービス残業をしたい人がそういう信念を持って仕事をしても、はっきり言って迷惑です。

日本の企業は、とにかく効率が悪い。
その非効率な部分が大事じゃない業務に出てきます。
大事じゃない 部分をバッサリ切り捨ててしまえば、自然に効率は上がります。

ウサギと亀の寓話がありますが、社会で必要とされるのはウサギです。
ウサギが仮に大きなミスをしても、十分にフォローができます。
しかし、亀が遅れて作業し、それにミスが重なると周りに大きな迷惑がかかります。
逆に、ウサギのミスが亀より多かったとしても、「亀だからミスはしないだろう」と、試験もせずに製品を出荷することはできません。どちらも同じ労力をかけて試験しなくてはなりません。
加えて、亀が遅れれば遅れるほど、業務を途中で投げだすリスクも大きくなります。

業務におけるウサギは、要らない業務には手を出しません。

どうでもいいところに時間を費やすと、無駄なその業務はいつまでたってもなくならず、
結果亀になってしまいます。

大事なことを大事にする方法はシンプルです。
大事なところに全ての労力をかけるように動くのです。
そして、それを盾に大事ではない業務を無視します。


選択を間違うことより、選択肢がないことが結果をきめる

よく選択を間違えたために事業に失敗したとか、経営が悪化したと言われますが、実際には選択を誤ったことより選択肢がないこと自体が結果に大きく影響します。

麻雀などでもそうですが、リーチをかけられて安全牌がない。押すか引くかといった話になります。
しかし、こういう話には違和感があります。強い人は、そもそもそういう場面に当たらないのです。
不利な場面でほんの一寸の差しかない選択をどうするかよりも、そうならないための手を打つ選択肢を持てているかが結果を大きく左右します。

研究開発に投資する理由もこれがほとんどです。
新しい技術を研究する理由は、8割は選択肢を増やすためです。
その技術によって直接事業につながらなくても、技術が優れていれば何らかの別の場面で使える場合が必ずあります。

別の新しい事業を行おうと考えた時、社内に似た技術があればその選択を取りやすくなります。
複数の似た技術があればその中から妥当なものを選択できます。
そうでなくても、継続的な投資で基礎的な設計技術やソフトウェアの知識といった技術力は少しずつ上がって行きます。

技術がなければ、技術を獲得するところから投資が必要で、失敗のリスクが大きくなり、動きを取るのが難しくなります。
身動きが取れないから何もできないでいると、社会から置いていかれ、最終的になにもできなくなります。

「余裕がない」と言って新しい技術に投資しなければ、投資しなかったという事実によって5年後、10年後には技術力が衰え、
技術力がないことによって更に新しい技術への投資ができなくなります。そうなってしまうとメーカーとしては完全に終わりです。

未来の選択肢が広がるためには、裏目に出た場合のイメージが重要です。
投資を行い、仮に失敗したとして、完全にゼロになってしまうでしょうか。

技術に投資すれば、仮にそれが失敗に終わっても、技術は残ります。
その技術は新しい開発の力になります。
新しいものに挑戦したということは、次の新しい挑戦の力になります。

最悪なのは、失敗した後何も残らないことです。
全てを外注企業に任せてしまっていては技術は身につきません。
懲罰的に技術者を解雇してしまえば技術はそのまま流出します。

選択と集中」と言って、テーマ選定とそのための資料作りに物を作るのと同じくらいの労力をかける場合がありますが、これも効率が悪い。
机上の空論でどれだけ情報を集めても、議論を繰り返しても、実際に物を作って得られるノウハウや知識に比べたらあまりに小さく、後に何も残りません。
テーマの2分の1が採用され、それから物を作り出すとすれば、効率は3分の1。
ほんの数%選定の精度が上がっても、全く相殺できません。

こういったことが繰り返されるうちに、社内にまともに技術がわかっている技術者がいないという異常な状況に陥るのです。
そうして手足を縛られて、身動きが取れない中で最良の選択は何かという議論はやっても無駄です。

手足を縛られている理由そのものを解決する努力が必要です。


年金制度の問題

老夫婦がいます。子は一人っ子。結婚していて孫もいる。

老夫婦は定年を迎えて収入がなくなります。
そこで、子を交えて家族会議を開きました。

「私達夫婦は、これから先暮らして行くことは困難です。そこで子に扶養してもらう必要があります。
月30万円の仕送りを希望します。賛成の人は手を上げてください。」

「2名の賛成がありましたので多数決により支払いを決めます。子は来月から支払われるように手続きしてください。支払われなかった場合は給与や資産を差し押さえます。」

そんな無茶苦茶な、、と思いますが、今国家レベルでは平気でこんな理屈が通っています。

1.5人の現役世代で一人の高齢者を支えるという時代がもうすぐ来ます。これは、夫婦で1.33人を支えるということです。
医療費や介護費用まで含めると、高齢者の生活を支えるには一人あたり平均月20万は必要でしょう。

つまり、現役世代が高齢者を支えるには夫婦で月30万円弱の経済的負担をしなければならないということです。手取り15万として、給与から天引きにされると共働きでも全く残りません。

年金制度は、この単純な算数によって既に破綻しています。
気付きたくない多くの人と、気付かせたくない一部の人によって無駄な延命措置が続けられているだけです。

本来年金制度とは、支える側の支払い能力と、受け取る側の最低限受け取らなければならない額との間のバランスで成立します。
受け取る側は、支払う側の支払い能力を超えて請求することはできません。
国家財政がこれだけ急激に赤字を膨らませていることを見ても、既に現役世代が支えられる上限を、受け取る額が大きく上回っていることは明らかです。
ところが、現在の制度では、受け取る額だけが一方的に法律で決まっていて、選挙によってそれが承認されている状況です。
少子化によって若者が減っていることを逆手に取った乱暴な理屈です。

この理不尽な支払い要求によって、社会全体が悲鳴を上げています。国は財政危機に陥り、少子化対策にお金を費やすことができません。社会保障の負担が大きいため、企業は国際競争力を維持できなかったり、社員の給与を減らさなければなりません。
若者は経済的負担から結婚や子育てが困難になり、結果更に少子化を進行させます。

高齢者は、自分が年金を受け取っていること自体が、子や孫の職を奪い、結婚や子育ての機会を奪っているという事実をきちんと認識すべきです。

そして、「支払う側がいくら支払えるのか」という視点で議論を始めなければなりません。
このまま進めば、いつか支える側が支えるのを拒否するという事態になるでしょう。


技術者の技術流出と引き抜き

技術者の引き抜きがと情報の流出が問題になっているようです。

USBメモリで技術情報を持ち出すのはさすがにアウトですが、違和感があります。
USBメモリに保存したデータにいかほどの価値があるのでしょうか。

日本の技術力は確かにものすごく高い。
ではその技術のノウハウがどこにあるかと言えば、それは技術者の頭の中です。
USBメモリに保存されたデジタルデータにそれが凝縮されて詰まっているなどということはありません。

技術が流出したというのは、技術者が流出したということです。
技術者が流出するのは、優秀な技術者が不当に安い賃金、待遇で働かされているからです。

優秀な技術者というのは、プロ野球で言えばエースピッチャーや四番打者です。技術力次第で10億、100億という単位で売り上げに影響します。ダルビッシュの年俸が500万だったら、メジャーに引き抜かれるのは当たり前です。

「2倍、3倍の給与を提示されて」などと言われるとお金にものを言わせて引き抜いているように聞こえますが、金額にすれば1500万とかその程度です。貢献度から考えれば妥当というか、むしろ安い買い物です。買い叩かれていると言ってもいい。

日本では貢献度の高い者がその貢献度に見合った給与を得るという風潮がありません。そのため、給与は全員が横並びにされ、技術者を引き抜くのにかかる費用は相対的に安い。

この事実が、引き抜きを誘発する大きな原因になっています。

技術力の流出を止めたいのであれば、優秀な技術を持つ技術者には、その技術力に見合った給与、待遇が保証されるシステムを作らなければなりません。

安い賃金で奴隷のように働かせて、抜け出すことが困難であったり、抜け出した者にペナルティを与えることで人材や技術力の流出を止めようとすることは、市場原理の観点からも、職業選択の自由という意味からも正しいとは言えません。

改善のためには人材の移動が活発化することです。不当な待遇を行っていれば、優秀な技術者は引き抜かれるという状況を作ることです。優秀な人材が次々引き抜かれる状況が出てくれば、技術力の低下というリスクが顕在化します。

それでもなおリスクに目を瞑り、赤信号でもみんなで渡ろうという経営をやるのであれば、その企業は潰れても仕方ありません。

そういえばオリンピック

オリンピックを見ていると若い人はすごいと思う。

スノボで銀メダルを取った平野選手なんかプレッシャーとは無縁じゃないかってくらい安定していた。
演技は金メダルでも全く不思議じゃない。

浅田選手もすごかった。
一番印象に残る場面が、まさかメダルを取れなかった選手の演技になるとは思わない。
たった一言で元首相をただの口が軽いじーさんに変えてしまったというのも。

スポーツ選手にしてもアーティストにしても、イメージする力が大事なんだと思う。
歌を歌う時は、どう歌いたいかを正確にイメージする。
野球選手ならどうやってホームランやヒットを打つか。
スケート選手ならどうやってトリプルアクセルを飛ぶのか。

それをありありとイメージできたならば、後はそれほど難しくない。
「今の自分がどのレベルにあって、何が足りず、何をすべきか。」
丁寧に自分を見直すだけでわかってくる。

理想の自分に近づいたら、次は更に上の自分をイメージする。

そうやって自分で伸びて行く人には天井がない。

プレッシャーもおそらく感じない。
自分が普通に演技すれば普通に結果が付いてくることを知っているから。


未来予測:ロボット

ロボットの未来とはどんなものでしょう。

鉄腕アトムのようなロボットが実現されるかと言われれば、残念ながら不可能ですと答える他ありません。

二足歩行ロボットは確かに実験室レベルでは成功していますが、それを実現するためにはたくさんの関節を作る必要があり、その一つ一つに電源を供給し、駆動系を組み込み、センサーで状態を把握し、外部からの制御信号に対して適切に動作する制御系を構築する必要があります。
ASIMOくらいの規模にはどうしてもなります。量産化しても一千万円以下にするのは難しい。
二足歩行ロボットは、これから先も展示会場でだけ見かけるロボットでしょう。

人間の手の動きを精巧に再現するロボットも、価格面から量産は難しい。

人の感情を理解するロボットも、上記に比べればハードルは低いと思います(例えば量子コンピューターを使って)が、可能性としてはほとんどありません。

こう言うと「ロボットには未来はないのか」と思えますが、そういうわけでもありません。

目的に特化したロボットはこれから先どんどん身近になっていくでしょう。
ルンバのようなお掃除ロボットはその先駆けですが、似たようなロボットが生活の一部になっていくという例は今後も増えていくでしょう。

しかし、ロボットがもたらす最も大きい変化は、産業(農業、工業、水産業)の変化ではないかと思います。
今開発されているロボットの多くは、人家に置くには大きすぎますが、オフィスや工場に置くにはよく適合します。入る者が限定され、その者には適切な教育を施すことができるような場所での利用は、ロボットの性質にも合います。

例えば製造工場。今は巨大な敷地内でベルトコンベアに載って製品が運ばれ、それに人間や産業用ロボットが作業をしながら流れ作業で生産します。この方式が無くなるとは思いませんが、ロボットの普及が進めば全く違ったタイプの工場も主流になるでしょう。

比較的狭い敷地で複数の業務をこなすロボットが、自由に動き回りながら指示された業務をこなしていくという形です。人がこの方式で作業するとミスが多く発生して全体の効率を大きく下げますが、ロボットならば忠実に、誤りなく作業を行うことができます。作業に柔軟性があるため、少量多品種の生産に向いています。都市部の狭い敷地でも生産可能なので、消費地のすぐ近くで組み立てることによる輸送コストの低減も期待できます。
BTOパソコンの生産などは恩恵を受ける典型的な例です。

ロボットも人間と同じで得手不得手があります。
例えば介護の現場はロボットにとっては苦手な作業です。
家事を代行するのも苦手でしょう。
そういう、人間にしかできない作業には人間が携わり、ロボットにも可能な作業をロボットが負担するようになるでしょう。




未来予測:自動運動自動車

日産が自動運転自動車を販売すると発表しました。
今注目の自動運動技術ですが、自動運動技術の課題はと言われるとハードルはまだまだ高いでしょう。

最大の課題は安定化の壁でしょう。
現在見込まれる自動運転では、いわゆる制御工学による安定化は不可能です。
つまり、何らかの予期しない外的要因に晒された場合に暴走する可能性がないと保証することができません。

路面が凍結していた、突然濃い霧が発生した。
竜巻や砂嵐、突然の強風。雷。地震津波
動物が飛び出して来た。
なぜかマンホールの蓋が空いていた。

全てに安全な対応をする必要があります。

またその対応は、通常の制御動作の中で安全性を確保するものでなければならず、
異常な状況を認識することによって安全側に倒れるという制御であってはなりません。

異常を認識することで安全を確保するならば、異常の認識に失敗したり想定外の異常であったとき、途端に不安定化し、時には暴走という事態に陥るからです。

この壁は想像以上に大きいでしょう。
ある特定の条件に陥ると時速100キロで壁に突進しますなどという自動車は、たとえその可能性が極めて低くても、誰も乗りたがらないでしょう。

絶対に越えられないとは言いませんが、この壁が最終的に普及を妨げる要因になる可能性も高いと思います。

そうなったとき、もう一つ別のコンセプトで自動運転を行う乗り物が注目を集めるのではないでしょうか。

鉄道です。

鉄道といっても、今世界中にあるような大型でたくさんの人数を運ぶものではありません。
小型で少人数(2~5、6人)を乗せる大きさのものです。
軌道も路面電車LRTのように自動車の道路と共用できるタイプです。

軌道上を走るとすれば、制御の難易度が大きく下がります。
暴走を本質的に防止する機構も備えることができます。
「危なくなったらブレーキを踏む」という単純な動作原理で安全を確保できます。

このようなタイプの自動運転車が広まる未来の方が、実現性は高いように思います。